伊達政宗の側室たち

中世史(日本史)

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仙台藩藩祖・伊達政宗には公的には七人の側室がいました。

いまいち実情の良く分かっていない側室もいますが、政宗の七人の側室と、そしてもう一人の非公式の側室、そして彼女の産んだ子供たちがどうだったのか、詳しく見ていきましょう。

伊達政宗の側室:飯坂の局(松森御前【松森の局】、吉岡の局)

政宗公は姫君を御覧有けるに。其容色世に勝れ拾も夭桃の春を傷める粧ひ。垂柳の風を含める有様なれば。政宗公御喜悦淺からず。則側室となし御名は飯坂の局と改。

引用:『飯坂盛衰記』

永禄十二年(1569)に、飯坂城主・飯坂右近宗康の次女として生まれました。政宗より2歳年下で、政宗正室の愛姫と同い年ですね。

飯坂の局は、政宗が最初に迎えた側室だと言われています。有名な名前「猫御前」については、どうも大河ドラマ『独眼竜政宗』の原作・山岡荘八著の『伊達政宗』内でつけられた名前のようですね。

諸説ありますが、一般的には政宗長男の伊達秀宗の生母で、政宗の三男である伊達宗清の養母だと言われています。(ただ宗清に実家の飯坂家を継がせていることから、実際には宗清の実母だったのでは?という説も根強いです。)

あるいは、彼女の実子はなく、宗清のみを養育したとの説も根強いです。

大層な美女だったそうで、政宗の侍女としてお城に上がることを望まれますが、政宗自身の希望により側室になったと言われています。

彼女は政宗の側室として米沢城に入り、秀宗を産んだそうです。ただ同年には松森の地に隠棲しているので、それ以後は政宗とのかかわりは薄いのかもしれません。

その後、生母の新造の方(後述)を亡くした政宗三男・宗清を引き取ります。

飯坂の局の実家の飯坂家は、飯坂の局とその姉しか子供がおらず、一時断絶してました。そこで、飯坂の局は宗清を後継者として再興させました。その後は、宗清の近くにずっと住み続け、そのまま寛永十一年(1634)に亡くなりました。

新造の方と同一人物視されることもあります。

伊達政宗の側室:新造の方

抑権八郎と申は。政宗公の五男にて。母は新造の御方也。此新造の御方と申は。新庄のもとの城主。六郷伊賀守の娘なり。

引用:『飯坂盛衰記』

前述の飯坂の局と同一視されることもあり、詳細はよく分かりません。伊達政宗三男伊達宗清の母、そして伊達政宗の長男である伊達秀宗の実母でもあると言われています。

新造の方の父親は、六郷伊賀守こと六郷道行だと言われています。もしもそれが本当であるならば、新造の方は出羽本荘藩主・六郷政乗の姉妹ということになりますね。

新造の方は子供が幼いうちに疱瘡にかかり、亡くなってしまったと言われています。

没年については諸説ありますが、慶長十七年(1612)、もしくは慶長八年(1603)説が有力なようです。亡くなった場所は仙台藩の江戸屋敷だと言われています。

彼女の死を政宗は非常に悲しみ、飯坂の局に新造の方の遺児・宗清の養育を依頼したといいます。

側室:祥光院

天正十一年(1583)に、摂津国西成郡に生まれた女性だと伝わります。苗字等、出自はよく分かっていません。

大坂の陣で活躍した塙団右衛門直之の娘という説もありますが、永禄十年(1567)生まれの塙団右衛門の娘とするには少し年齢が近すぎるように思われます。

ちなみに、祥光院には弟が一人いますが、彼は祥光院の息子・宗泰の家臣である山岡重長から苗字をもらっているとのことですから、かなりの庶民の生まれか、それか逆臣の娘などのはばかられる生まれだったのかもしれませんね。

彼女は摂津国の生まれであることからもわかるように、伊達家の伏見屋敷で政宗に見初められ、側室になったようです。

祥光院は、政宗の四男・宗泰を慶長七年(1602)に、伊達家の伏見屋敷にて産みました。宗泰は1歳にして岩出山城主となります。祥光院は宗泰に付き添って岩出山城に入り、以後そこで暮らしました。

息子宗泰に先立たれるという不幸はありましたが、孫の世話を受けながら明暦二年(1656)まで長生きしました。

側室:天渓院(於山方【阿山方】、柴田睦子)

於山方は、柴田(四保)宗義の娘として、天正十五年(1587)に、船岡城(四保城)に生まれました。

於山方は政宗の寵愛の篤い側室だったのか、政宗の側室の中では最も多い3人の子供を産んでいます。六男宗信、七男宗高、次女牟宇姫です。ただ男子たちはいずれも早世し、こどもを残しませんでした。

於山方は、当初は仙台藩江戸屋敷に居住していたようですが、のちに仙台の青葉城へと移り住んでいます。政宗にとって於山方は、国元の最有力な側室である「お国御前」だったのかもしれませんね。

政宗の没後は青葉城を出て、娘牟宇姫の嫁ぎ先である角田へ移り住みました、寛文八年(1668)、82歳の高齢で亡くなっています。

伊達政宗の側室:荘厳院(阿茶の局、柴田宏【弘】)

柴田信恒の娘として生まれます。弟に柴田常弘がおり、この弟は荘厳院の息子・宗実に仕えました。

慶長十八年(1613)に、政宗の九男・喝食丸宗実を産みます。宗実は、政宗の重臣・伊達成実の養子に迎え入れられ、亘理伊達家の祖となりました。宗実は武勇に優れており、特に銃術、水泳を得意としていました。

ただその分気が強いところもあったようで、後に山形藩ともめた際に、頑として山形藩の要求を受け入れなかったりしました。(結局、荘厳院の弟、柴田常弘が、山形藩の要求を受け入れて息子ともども切腹するという形で治まりました。)

荘厳院はその騒動を知ることなく、寛永二十一年(1644)に亡くなっています。

側室:法性院(勝女姫【於勝の方】、多田勝子)

勝女姫は、多田伊賀守吉広の娘として生まれました。

彼女の父・多田吉広はもともとは和賀氏の一族・毒沢家の出身でした。

毒沢家は和賀氏とともに、政宗にそそのかされてしまい、南部氏に対して岩崎一揆を起こしていますが、最終的には和賀氏ともども自害に追い込まれてしまいました。その意味では、勝女姫は政宗と因縁があるといっても過言ではないのかもしれません。

もともとは仙台城の腰元として城に上がっていたところを、その美貌もあって政宗に見初められたと言われています。伊達騒動の中心人物である一関藩主伊達宗勝と、伊達一門である湧谷伊達家の伊達宗実に嫁いだ岑姫の2人の子供を産みました。

宗勝は後年、伊達騒動の中心人物として仙台藩伊達家を改易寸前まで追い込みます。勝女姫、そして宗勝に流れる和賀氏・毒沢氏の血が、政宗の子孫を追い込んだと考えると、どこかうすら寒いものを感じますね。

側室:本寿院(妙伴/村上姫、村上妙子【妙】)

摂津国の浪人で大坂の陣では大阪方の武士として活動した村上正重の娘として生まれました。生まれた年は正確には分かっていませんが、江戸時代の初め、1603年ごろと言われています。

妙伴の弟には村上利重がおり、妙伴が側室になったのとほぼ同時期に伊達家に召し抱えられています。弟の士官が先だったのか、姉が側室になったのが先だったのか……よく分かりませんね。

彼女は政宗晩年の子供、千菊姫を産みました。千菊姫は宮津藩主京極高国に嫁ぎますが、高国は千菊姫の死後、改易されてしまいました。妙伴は娘に先立たれた後、寛文四年(1664)に亡くなりました。60代だったと思われます。

非公式の側室:香の前(高田種)

伏見の浪人、高田治郎右衛門の長女として天正五年(1577)に生まれました。

香の前はその美貌を見初められ、豊臣秀吉の愛妾となりましたが、後に秀吉から伊達政宗に下賜されます。ただ一説には、政宗家臣の茂庭綱元にと与えられた香の前を、政宗が略奪したとも伝わります。

なんにせよ、香の前は政宗との間に娘・津多と息子・亘理宗根を儲けました。しかし、なぜか香の前は政宗の正式な側室と認められることもなく、政宗のもとからさらに、茂庭綱元に下げ渡され、茂庭綱元の妻(側室)となりました。

そのため、香の前の子供たちは、表向きは茂庭綱元の子供として育てられました。香の前の娘・津多は原田家に嫁ぎ、伊達騒動で有名な原田甲斐を産みました。亘理宗根は亘理氏の婿養子となっています。

香の前は夫綱元の出家遁世後、息子の宗根に引き取られ、寛永十七年(1641)に亡くなりました。

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