牧の方~京出身の鎌倉幕府所代執権・北条時政継室~

中世史(日本史)

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鎌倉幕府所代執権・北条時政は晩年に息子義時・娘政子によって失脚に追いやられてしまいます。そこまで親子仲がこじれてしまった原因の一つが、義時・政子の継母にあたる時政の継室・牧の方の存在でした。

京出身とも言われる牧の方がどのようなパーソナリティを持つ女性だったのか、気になったので調べてみました。

牧の方は池禅尼の姪?

牧の方は牧宗親の娘とも、妹とも言われています。

牧宗親は、駿河国大岡牧のあたりを領有していた御家人でした。牧氏は『愚管抄』では「武者にもあらず」と書かれており、また宗親は長年平家の平頼盛に仕えていたことなどから、武士というよりは京の下級官人だったと考えられます。

牧宗親の出自はよく分かっていませんが、平頼盛の母方の叔父で、藤原氏の出身だという説があります。

藤原氏出身説にのっとると、彼は頼朝の助命嘆願を行ったことで有名な平清盛の継母で平頼盛の母にあたる池禅尼の兄弟!だとのことです。なんでも、『尊卑分脈』に、池禅尼の兄弟として、「藤原宗親」の名前があることから、その説が生まれたようですね。

ただ池禅尼と息子頼盛の年齢(池禅尼は長元元年【1104年ごろ】生まれで、平頼盛は長承二年【1133年生まれ】)を考えると、息子政範を文治五年【1189年】に産んでいて、北条政子(保元二年【1157年】生まれ)と同年代だと言われている牧の方との間には、かなりの年代差があるようにも思われます。

また池禅尼の従兄弟は、鳥羽法皇の院近臣で正二位・中納言にまであがった藤原家成です。もしも牧宗親が池禅尼の兄弟だとするならば、牧宗親は少し身分が低すぎるように思われます。(牧宗親は「六位の武者所」だったと『吾妻鏡』にはあります。)

さらに、牧宗親は北条政子による亀の前の屋敷の打ちこわし事件にかかわったため、当時としてはかなり恥ずかしい刑罰である「髻を切られる」という刑罰を頼朝に与えられています。

頼朝は平家一門であっても、池禅尼の子供である頼盛の命を奪うことはしませんでした。そこまで恩を感じている相手の同族に、浮気相手のものに危害を加えたというだけでそこまでの罰を与えないような気もします。

牧の方と池禅尼がはたして血縁関係にあったのか?真偽はかなり不明瞭と言えるでしょう。ただ牧宗親は平頼盛に長年仕えていましたので、娘にあたる牧の方も、血縁関係ではなくとも池禅尼に仕えていた、などの関係性はあったのかもしれませんね。

牧の方と源頼朝

牧の方と源頼朝との関係性がどのようなものであったのかはよく分かっていません。頼朝からすると、牧の方は義母(妻政子の継母)で、もしかしたら恩人(池禅尼)の姪でもあったかもしれない女性ですが……。

牧の方と頼朝との関りがみられるのは、政子の命令による亀の前の屋敷の打ちこわし事件ですね。この事件が起こるきっかけとなったのは、牧の方が政子にちらりと亀の前のことをもらしてしまったからだとか。

牧の方からすればたわいのないことだったのかもしれませんが、その事件で父親が打ちこわし役に任命され、髻を切られてしまうまで予想できていなかったのではないでしょうか。

牧の方と北条政子

牧の方と北条政子の関係は、一応継母と継娘という義理の親子関係になります。

しかし牧の方が息子政範を生んだ年(文治五年【1189年】)には、すでに政子は一男二女(大姫、頼家、乙姫)の母親であったということを考えると、かなり年齢の近い義理の親子だったと思われます。

もともとは政子ともさほど険悪な関係でもなかったようですが、政子の実子実朝を殺害し、娘婿の平賀朝雅を将軍位につけようと陰謀を図ったことで(いわゆる牧氏事件)、政子との関係は断絶、牧の方は鎌倉の地から追いやられることになります。

牧の方と源実朝

牧の方と源実朝との関係は、義理の祖母と孫ということになります。

実朝は京から公家の坊門信子を妻に迎えていますが、伝承によると、実朝自身が雅やかな京出身の女性を妻にと望んだのだとか。牧の方も京出身ですし、牧の方ををきっかけに、京の都に対してちょっとした憧れみたいな感情を抱いたのかもしれませんね。

ただ、牧の方の息子政範は、実朝の妻を京の都に迎えに行った際に、そのまま京の都で発病し、亡くなってしまいます。牧の方からすれば期待の息子を、実朝の妻の輿入れのために失ってしまったわけです。

その後、牧の方は実朝暗殺を計画し、それが露見して失脚することとなってしまいました。牧の方からすれば、実朝は疫病神のような存在だったのかもしれませんね。

牧の方と畠山重忠

牧氏事件のきっかけとなったのが、畠山重忠の乱です。

畠山重忠は北条時政の娘(牧の方の継娘で、一説には北条政子・義時と同母)と結婚して、嫡子重保を得ていました。かなり北条氏に近しい存在で、特に牧の方の継子である北条義時とは親密だったようです。

畠山重忠の嫡子重保は、牧の方の息子政範同様に、坊門信子を実朝の妻に迎えるために上洛していました。重保は京で、牧の方の娘婿平賀朝雅の屋敷に世話になりますが、その際に朝雅と口論になってしまいます。

このことを憎々しく思った朝雅は牧の方に讒訴、牧の方は時政へ訴えかけます。重保の父・重忠の忠勤などを理由に、北条義時は牧の方と時政による畠山氏征伐を抑えようとしますが、かなわず、最終的に重保は征伐されてしまいました。

重保の死を聞いた重忠は逃げることなく北条氏の大軍と応戦、最終的に討ち取られることとなりました。

この事件は北条義時・政子と北条時政・牧の方の間の溝をさらに広げることとなり、最終的に牧の方と時政が失脚することへと繋がりました。

牧の方の子供たち

牧の方は北条時政との間に一男三女を儲けていました。それぞれの子供たちについて見ていきましょう。

牧の方の息子:北条政範

牧の方が北条時政との間に儲けていた唯一の息子です。弱冠16歳ながらに、武家としてはかなり高位の従五位に任ぜられるなど、将来を嘱望されていました。一説には、時政の後継者は義時ではなく政範だったのでは?とも。

しかし将軍実朝の妻・坊門信子を京に迎えに行った際に俄かにして発病、そのまま帰らぬ人となりました。もしも彼が生きていたら北条義時は執権とならず、鎌倉幕府の得宗家が生まれていなかった可能性もありますね。その意味では歴史を変えた人物といえるでしょう。

牧の方の娘:宇都宮頼綱正室→松殿師家室?

又聞、金吾縁者〈妻母〉 、於天王寺、為入
(松殿師家)
道前摂政妻之由、態告送女子并本
(頼綱)
夫許云々、自称之条、言語道断事歟〈禅門六十二、
女四十七

引用:『明月記』

牧の方の3人の娘のうち、1人は下野国の御家人、宇都宮頼綱に嫁いでいます。この娘は上記『明月記』によって、文治三年(1187年)生まれで、政範の2歳年長の姉であったことが判明しています。

宇都宮頼綱は源頼朝の乳母である寒河尼に育てられ、その養子のような立場にあるなど頼朝との関係も深く、かなり有力な御家人でした。

また、和歌の才にも優れており、藤原定家による小倉百人一首選定のきっかけとなったことでも知られています。

宇都宮頼綱は北条氏ともかかわりのある稲毛重成の娘と結婚していましたが、稲毛重成の娘と別れてまでして結婚したようですね。

ただこの結婚は良いことばかりでもなく、牧の方の娘を妻としていたため、宇都宮頼綱も牧氏事件で嫌疑を受け、出家に追いやられてしまいます。幸いにも出家したことでそれ以上の咎めはなく、無事に息子を当主につけることが出来たのですが……。

宇都宮頼綱室は、このあと宇都宮頼綱と離縁し、公家の摂政内大臣・松殿師家と再婚したとも言われていますが、詳細は不明です。

牧の方の娘である宇都宮頼綱正室は、頼綱との間に、後継者の宇都宮泰綱を産んでいます。また、藤原定家の息子・為家に嫁いだ娘も、宇都宮頼綱正室の所生だった可能性が高いです。(定家と宇都宮頼綱正室には為家正室を介して交流があり、鎌倉の情勢などをやり取りしていた形跡があります。)

ちなみに宇都宮頼綱正室の孫にあたる宇都宮泰綱娘は、得宗家の四代目執権・北条経時の正室となりますが、15歳で早世してしまい、子供も生まれなかったようです。もしもこの孫娘が子供をなしていたら、得宗家には牧の方の血が流れていたことになったでしょうが……。

牧の方の娘:平賀朝雅正室→藤原国通室

牧の方の娘の1人は、源頼朝の乳母子の比企尼三女の息子・平賀朝雅に嫁いでいました。平賀朝雅は、源頼朝の乳母の孫であり、頼朝の信頼篤かった新羅三郎義光流の源氏一門・平賀義信の子でもあり、さらには頼朝の猶子でした。

その血筋・家柄の良さもあってか、平賀朝雅は実朝将軍期には京都守護にも任命されているなど、平賀朝雅は幕府内でも一定の勢力を持っていました。

もしも牧の方の陰謀が実っていたのなら、彼女は将軍の正室として、第二の北条政子となっていたのかもしれません。しかし陰謀は破れ、平賀朝雅は北条義時の手の者に暗殺されることとなります。平賀朝雅と牧の方の娘との間には、子供などはいなかったようです。

彼女は京の都で、公家の権中納言・藤原国通と再婚しました。夫の国通は治承元年(1176年)生まれで、おそらく平賀朝雅や牧の方の娘よりやや年長だったと思われます。

牧の方は夫時政の死後、国通夫妻に引き取られ上洛し、国通夫妻の有栖川邸にて夫時政の13回忌を行ったことなどが知られています。

母のために夫を失った平賀朝雅室ですが、それでも母親を見捨てなかったあたりに彼女の強さを感じるような気がします。

牧の方の娘:三条(滋野井)実宣室

牧の方の娘の1人は、公家の三条(滋野井)実宣と結婚しています。

この実宣、時流にまかせて妻をころころと変えていた節があり、最初は持明院基宗の娘と結婚、その後離縁して祖父の後妻の連れ子(平家一門の平維盛の娘)と結婚していましたがまたも離縁、3度目の結婚として牧の方の娘との結婚をはたしました。

実宣室となった牧の方の娘は子供を産むことはなかったようで、実宣の長男公賢、後継者となった公光はいずれも彼女の所生ではありません。(前者は家女房、後者は牧の方の娘の後に再婚した5番目!の妻の持明院宗子が産んでいます。)

とはいえど、牧の方の娘との再婚は実宣にかなり良いものをもたらしたようで……。実宣は息子に「権門富有の婚姻」を強固に勧めましたし、また建保四年(1216年)の牧の方の娘の死後にも、実宣自身、何度も再婚を繰り返しました。

牧の方の性格~『明月記』での記録~

牧の方は孫娘の舅にあたる藤原定家の日記『明月記』中でたびたびその姿が見受けられます。

彼女は上洛し、娘婿の藤原国通邸を拠点に生活していたようですが、失脚後も鎌倉との強烈なパイプを持っていたようです。失脚したにもかかわらず、京へ上った後も、たびたび鎌倉に足を運んでいたようです。

牧の方の情報は、娘(宇都宮頼綱正室)を通して孫娘(藤原為家室)、孫娘の舅・藤原定家、さらに孫娘の夫の叔父にあたる関東申次・西園寺公経などに流れて行ったことが分かります。

政治的な活動もする一方で七大寺など京の寺社に、孫娘ら一族を連れて、たびたびド派手に詣でたとか。

これらの出来事から察するに、政治に対する強い関心や、華やかで、どこか出しゃばりな性格をしていたことがうかがえますね。

牧の方の最期・死因

牧の方がいつごろ亡くなったのか、どのような死因で亡くなったのかは記録に残されていません。ただ、牧の方は娘を頼って上洛していましたので、京の都で娘夫婦に見守られながらその生涯を終えたのではないでしょうか。

『明月記』などの記録により、牧の方は少なくとも嘉禄元年(1225)時点では健在であり、継子であった北条義時、北条政子よりも長命であったことが分かっています。

牧の方の子孫

牧の方の子供のうち、政範、平賀朝雅→藤原国通室、三条(滋野井)実宣室は子孫を残したかは不明です。

確実に子孫を残したのは、宇都宮頼綱正室(後に松殿師家室?)で、宇都宮頼綱との間に、宇都宮氏当主の宇都宮泰綱と、おそらく藤原為家正室を儲けています。

宇都宮泰綱の子孫は戦国時代まで続きますが、宇都宮国綱が1597年、突如として改易されたことで大名としての歴史を終えます。宇都宮国綱の子孫は水戸藩の家臣となりました。

藤原為家正室は、為家の男子を3人産み、彼らは御子左家の嫡流となる二条家、京極家の祖となりました。京極家、二条家ともに、中世には血筋が断絶することになりますが、女子などを通して西園寺家などにも血を残したようです。

伊東入道の娘(北条時政前室)とは何者?
北条義時の母は、前田家本『平氏系図』によると、「伊東入道の娘」とあります。 北条時政の前妻だったと思われる伊東入道の娘ですが、後妻の牧の方と違って影が薄く、『吾妻鏡』等、史料には全くと言っていいほど姿が見えません。 そんな影の薄い「伊東入道...
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